レッスン楽器


上部フレーム

ピアノ教室コンセール・イグレック♪


ブログ

ぶっつけ本番、譜めくりニスト?!

投稿日:2014-10-15

こないだの日曜は、豊田市浄水にある音楽サロン「ア・ピアチェーレ」での「青柳いづみこ&ジョヴァニネッティ・デュオリサイタル」へ。古いカーナビのおかげでかなりの回り道?をしてしまい、迷った挙句、到着したら開演5分前。

何とか間にあったと息をついて受付をすませると「黒田さんですね?・・・ところで、きょうの伴奏曲の譜めくりをお願いできませんでしょうか?」・・・場を察し、とっさに「はい、わかりました。」と答えたものの、きょうのプログラム、何だっけ?


席につくと、さてとお題は、グリーグの2番とドビュッシーのヴァイオリンソナタ。グリーグ、譜面見るどころか、曲聴いたこともない。うぉっと!

 

ピアニストの青柳さんの隣に座った途端、今いる自分のシチュエーションがわかってきました。

こういうところが、私です。(*^^)vまぁ、やるしかありません。

 

譜めくりの椅子にすわり、楽譜をみやると、第1楽章3/4 allergo のように見えます。だって初見なのです。あぁ、これはリハではない、そう本番なのだ。次の楽章が何拍子かもわからないし、3楽章構成なのか、4楽章まであるのかもわからない。まったくの出たとこ勝負!

 


演奏が始まると、手元から溢れる青柳さんの音はじつに柔らかく、瑞々しく、流れがとても美しい。フレージングをダイレクトに感じながら、小節のゆくえに目を見張ります。

グリーグは全楽章とも早めのテンポでの3拍子、聴いたこともない曲にしてはまだ4小節単位のフレーズがとりやすかったですが、ドビュッシーは曲も知っているはずなのに、青柳さんのピアノにかかると、アルペジオの音型など、さざ波か秋晴れの糸雲のようにふわっと小節の波間に消えてゆく。聴こえてくる音楽は、フレンチの語感。気もちよく聴いてしまうと、段を見間違う。



グリーグでは気をつけていた複縦線(=楽章の終わり)!なのに、ドビュッシーの第1楽章のそれに気が回らず、その右ページの終わりに向けてのフレーズで席を立ちあがり、譜めくりの態勢に。曲はアッチェレして進んでいるので、最終フレーズで「あぁ。」と気がついた時はすでに時遅しで、仕方がないからページをめくり椅子に座った。第1楽章はエンディングで盛りあがりをみせ、strettoで曲が集結する。ここで譜めくりさんがちょこんと立っているのは見た目にもちょっと不恰好だし、奏者の気もちも高まるところ。もちろんめくり間違えたわけでもないし、めくりそびれたわけでもないが、場を考えると「あ〜ぁ、これきょう最大の私のポカ?!」と思いきや、皆さま何が始まったと思います?  

 

 

いや、ほとんど間髪入れずに第2楽章が始まったのです。ふつう短くても5,6秒は間をとるところ、私には3秒ほどに感じました。


カッコイイ〜!(^^♪

 

その場への機知に富んだとっさの思いやり、何が起こってもその場を楽しんでしまう à la française の空気を感じ、このあたりからふぅ〜っと私の気もちはなごみ、ヴァイオリンの音もふわりと耳に入ってきました。

アップテンポで流麗なフレージングの波に押されながら、「1.2.3.2.2.3・・・あ、ヘミオラだ!・・・また1,2,3,deux, deux, trois・・・?, un, deux, trois, deux, deux, trois・・・」といつの間にかフランス語でカウントしている自分がいました。

 

思いがけずとっても集中した時間をすごし、終演後は近くの喫茶店に立寄り、3人で束の間のティータイム。スィーツをご馳走になり、久々のフランス語交じりの会話を楽しみました。(^_-)-☆


          

 

     

      ( ↑ Giovaninettiさん撮影。青柳いづみこさんと。)


音楽は科学のように・・・

投稿日:2014-10-08

 ブログ「夏〜秋へ」で触れた先月のイヴ・アンリ先生のピアノレッスン時のことを、もうすこし。レッスンは、電気文化会館ザ・コンサートホールで1960年製のBECHSTEINピアノを使って行われました。音出しする時間が一切なかったので音響を探りながら通奏することになったのですが、慣れるまで音のゆくえがキュィ〜ンとひん曲がったように聴こえ、音感で音程がとれない箇所がありました。ピアノとひと見知り状態で始まったレッスンでしたが、だんだん音に慣れてくると手は自然と鍵盤に吸いつくように馴染み、触れるだけで音が波打って出てくるようで気もちよく、素晴らしく美しく、また普段のピアノではなかなか表現がむずかしい、内声の旋律線が魔法のように浮かびあがってくるのでした。

 

レッスン終了後、先生のレクチャーコンサートがあり、シューベルト、シューマン、ショパン、リスト、ドビュッシー、ラフマニノフ、デュカスの作品が演奏されました。先生のピアニズムは傑出していて、私はこれまで数多くのピアニストたちの演奏を聴いてきたるのに、こころから感動したものです。(E・ギレリス晩年の来日でモーツァルト協奏曲の演奏があり、まるで弦に金粉が塗してあるのではないかしらと思うほど鳥肌立つ感動を覚えた時以来ではないか、と思います。)なかでも私は、とりわけショパンの演奏に心惹かれました。

 

今では小中学生でも、ショパンのワルツやエチュードを果敢に弾く時代になりました。音源は豊富ですから皆弾くには弾くのですが、かなり手荒にバンバン弾きます。そんな風潮にこちらも引きずり込まれ慣れっこになってしまう?くらい、そういった演奏があたりまえのものとして流通しています。しかし、実際のショパンはどうだったのでしょう?

 

「弟子から見たショパン」(音楽之友社)という魅惑的な本があります。そのなかにあるマルモンテル(のちにパリ音楽院でのドビュッシーにピアノを教えた。)の記述によれば、「ショパンのタッチはビロードのように柔らかく、湧き出る音は煙のようにたちこめるばかりであり、・・・ペダルに関してはこれほど熟達した技巧を駆使し得たピアニストは未だかつていなかった。現代の名ピアニストのほとんどにとっては、ペダルをむやみやたらと使いたがるのが致命的な欠点だ。大音響もほどほどにしないと、繊細な耳は疲れ、いらだってしまう。」また「鍵盤を撫でるくらいでよいのです。絶対に叩いてはいけません。」と、レッスン中ショパンは言っていたと記されています。 

私が先月聴いたイヴ・アンリ先生の演奏は、この記述を思い起こさせるほど、現代の音から隔絶した美しさを放っていたのです。

 

 

先だって東京に出かけた際にベヒシュタインサロンを訪れ、フルコンはじめいろいろな機種を試弾させていただく機会を得ました。とりわけ私が興味を惹きつけられたのは、1929年製のベヒシュタインでした。高音部の構造が現代のモダンピアノとは違い、ピアノフォルテのように音の芯が残り、すごく関心を持ちました。そのピアノで「幻想即興曲」を弾くと、時代が遡るような気もちになり、感慨深いものでした。また「エリーゼのために」を弾いた時も、左手のラミラ〜といった音が普通にレガートに弾いても芯が残るような音になります。そうして、もっともっと打鍵後直ぐに脱力するとほんのりいい響きが残ることがわかります。

モダンピアノではある程度響きすぎた状態でもそれなりに美しいので、いかに日頃無神経さに慣れてしまっているかということに気づかされます。こういったいろいろな、というか、やはりその曲その曲が作曲された時代に近いピアノで弾いてみるという経験は、絶対必要ですね。音大でもこういったことを教えてゆくべきか等思いました。


                    


そうして、現代のモダンピアノのよさもわるさも分かる気がしたのです。こういった時代物のピアノを弾くと、前述したように、これまでのモダンピアノで何気なくやっていた奏法の微妙な取り違えに気がつきます。ショパンですら、その時代のエラールとプレイエルの違いについてこんな記述があります。「気分のすぐれないときは、エラールのピアノを弾きます。これだとすぐに完成された音が出せますからね。でも活力があって、自分だけの音を出してみたいなと思うときは、プレイエルが必要なのです。」

 

私はショパンの言うエラールもプレイエルもまだ弾いたことはありませんが、ショパンの時代にあってのエラールが今で言うモダンピアノ、プレイエルがこうした古い時代のピアノ、また現代のスタインウェイとベヒシュタインやファツィオリなどとの差に同等するのではないかと思います。

 

響きすぎる、すなわち響きは多ければよいということではなく、ピアノ演奏には、いかに音と音が波長しあうか、ということが肝要なので、過ぎたるはなお及ばざるがごとしで、響きすぎては波長しあうことなく耳障りなだけにおわる。でも現代のピアノで大きなホールで弾く機会も多いなか、そうした音響に慣れてしまっているところがあると思うのです。紙面で書くことは難しいですが、そこを微妙なタッチの違いで、ほんの少しだけ音響を削ぎ落としていくと、音の陰影は素敵なものに変貌します。ベヒシュタインは響きに立体感があり、多声部が明確に浮び上がってきやすいというところは魅力的に思います。でも、これまで触ったことのあるスタインウェイ、ベーゼンドルファーではあまりその差がわからなかったタッチの微妙さを今回知ったうえで自室のYAMAHAピアノに戻ると、いかに慣れとはこわいものかと思いますが、ちゃんとタッチの差は出るもので恐れ入るのです。

「いい楽器がこなせれば、それなりの楽器の名手となる。」と頭に刻み込んだ上で、自分にとってのいい楽器に巡り合い、それをこなしていくことができれば、それはもう音楽家にとって最大の理想でしょうね。

 

 

私はここ数年、様々な楽譜を読み返しながら、リズムが持つ陰影とでも言ったらいいのかな、それがフレーズの方式ともつながり、そこを踏まえたうえでスラーの線やアクセントの真実の意味を読み取る、といったことに神経を費やしてきました。

音楽には、さざ波のリズムのように、月の満ち欠けの周期性のように、太陽が出る日中と夜のように、alternativeなさまざまな変化、陰影の法則があるのです。ここまでくると本当にピタゴラスやプラトンが言ったように「音楽は科学の如く。」と思います。

音楽は、そうした時間軸をもとに考えられる陰影の法則と倍音構造をもとに考えられる音の立体感としての法則のなかに繰りひろげられる広大な宇宙です。

 

 

こうした大きな気づきのもとにピアノを弾き始めると、これまで何度となく演奏してきた曲や読みかけの曲が同じ目線でどんどん弾けるようになり、自分でも驚きの連続です。これまでの研究、考察が、ひとつの大きな視点のもとに統合を始めているのでしょう。今年から来年にかけては自分のレパートリーを見直してゆく時間にしたいと思っていたのですが、ここへきて爆発したかのような進展ぶりで、新たな発見の毎日です。

 

 

私は19世紀から20世紀にかけて活躍したフランスの小説家アンドレ・ジッドが書いた「ショパンについての覚え書」(ショパン出版)の即興曲についての論述の中のこんな言葉が好きです。

「・・・ある種の緩やかさと不確実性をもって即興しているかのように演奏することが重要のようだ。いずれにせよ、速いテンポ設定にありがちな、耐えがたくも自信に満ちた演奏をしてはならない。演奏は発見していく散歩なのである。演奏者が前もって曲の展開を聴き手に予測させすぎたり、既に用意されたものをなぞっているのだと悟られたりしてはならない。」「私は楽節が次々に弾き手の指先から生み出され、それが弾き手を超えて弾き手自身に驚きをもたらし、聴き手がその魅惑の世界に招き入れられるように感じる瞬間が好きである。」



「ひたすら音の追求!」と中学卒業時に文集に書いた自分の言葉がふと浮かび、ほくそ笑みました。

まさに、私にとっての楽しい時間が流れ出したようです。



               

*10/4岐阜現代美術館で行われた「高橋アキ・ピアノリサイタル」にて。クセナクス作曲「ミスツ」では、音の陰影の交錯が鳥や自然音のように安らぎを聴かせ、演奏全体は1枚の墨絵のように、美しかった。こころに残る名演でした。



    アーカイブ

    下部フレーム