レッスン楽器


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ピアノ教室“Con Dolcezza”


インタビュー

音楽一家に育ったけれど、ピアノが弾けなくなってしまったことも。
そのときの恩師との出会いが、今の自分につながっています。

お父様が作曲家の高田三郎さん、お母様はピアニストという音楽一家に育った高田江里先生。
ピアノを弾くようになったのはやはり自然なことだったのでしょうか。
  • 高田江里(たかたえり)
  • 桐朋学園を経て、1969年渡独。
  • ミュンヘン国立音楽大学、デットモルト国立音楽大学卒業。
  • 1977年同大学マイスタークラス修了。
  • 日本やドイツでピアニスト、ピアノ講師として活躍している。
  • 全日本ピアノ指導者協会正会員
  • 日本演奏連盟会員
当時から家にはピアノも蓄音機(レコードプレーヤーを、当時はそう言ったんです。笑)もあって、常に私のそばには音楽がありました。母が家でピアノを教えていましたので、自分が習う前から母の生徒さんが弾くピアノをずっと聴いていました。自分がピアノを弾き始めるのもごく自然なことだったと思います。4歳から先生についてピアノを教わるようになりましたが、母の生徒さんが弾くのを何度も聴いて覚えているので、最初はどんどん上達して、あっというまに生徒さんたちを追い越してしまいました。ただ、そのあとは苦労しました。模範もいなくなり、楽譜も読めないし、母も厳しかった。それからピアノが嫌いになってしまいましたね(笑)。
ピアノを仕事にしようと思われたのはいつ頃からですか。
日本では母のほかに4人の先生に教わりました。はっきりピアニストになりたいと思ったのは中学2年生のときです。そこでやっと本気を出し始めたので、今思うと、かなり遅い目覚めだったと思います。桐朋女子高校のピアノ科、桐朋学園大学と進みましたが、なかなか芽は出ませんでした。
19歳のときにドイツへ留学されたそうですが、その頃はいかがでしたか。
ミュンヘン国立音楽大学でローズル・シュミット先生に就いてピアノを教わっていたのですが、そこで第二の挫折を味わうことになりました。本当に厳しくて怖い先生で、3年ほどでピアノを弾くことができなくなってしまったんです。先生の厳しい言動によって、人格まで否定されたような気持ちになって、自信が持てなくなり、精神的にもかなり追いつめられました。
ただ、その先生からは“本物の音を追求する姿勢”を教えてもらいました。振り返ると、学ぶところも多かったですし、今では本当に感謝しています。
その後、レナーテ・クレッチマー=フィッシャー先生に出会い、再びピアノを弾ける喜びを感じることができるようになりました。レナーテ先生はひとりひとりの生徒の才能や傾向を素早く見抜いて、いい部分を引き出してくださる先生でした。何を習ったか具体的には分からなくても、確実に成果が表われていくような感じでした。

生徒と先生が求めているものが一致したときに、
“1+1”以上の素晴らしいものが生まれるのだと思います。

その他に留学経験で得たことにはどのようなものがありますか。
たくさんありますが、日本で弾いていたときとドイツに行ってからでは、楽曲に対する捉え方が変わりました。たとえば、シューベルト。日本でイメージしていたのとは全然違って、「え、こんな曲だったの!?」と思わされることが度々ありました。モーツァルトなどもそうです。目からうろこが落ちるような驚きや発見がたくさんありました。
ピアノを弾いて表現するうえで、楽譜に書いてあることだけではなく、曲が作られた歴史的背景や、作曲家の意図や思いについても深く理解していくことの大切さを知りました。それはピアノを教えるうえでも大事なことだと思っています。
これまでに教わってきたいろいろな先生について、いま振り返ってみて感じることはありますか。
日本ではすごくいい先生に恵まれたけれど、ドイツに留学してみたら、自分が目指していた方向と違っていたということをすごく実感したんですね。日本では競争に勝つためのテクニックやノウハウが求められます。学年で一番になるとか、若くしてコンクールに出るとか、そういうことが重要視されるんですが、それと自分が目指している方向とは違うんだと気がついたんです。
相性が合わなかった先生もいます。その先生はすごく有名な方で、実績もすごくある方だったんですけれど、どうしても合わなかったんです。でも、いま自分が人に教える立場になってみて、その先生の教えることに対する真剣さや真面目な取り組み方を思い出してみると、「なんて立派な先生だったんだろう」って尊敬しますね。
そのことが、いまの教育方針にも影響しているんですね。
今でも、最初からコンクールに受かるための教え方はしたくないと思っています。そこにある音楽、楽譜をよりよく表現するためにふさわしいやり方を、先生と生徒ふたりの力で見つけていって、その結果、コンクールに受かりましたっていうならいいんですけれど。
先生と生徒の関係は、ある意味共同作業だと思っているので、一方的に教えるようなことはしたくない。先生が教えたいと思っていることと生徒が求めているものがマッチしたときに、“1+1”以上の素晴らしいものが生まれるのではないかと思っています。

私のことを“もったいない”と思ってくれた人がいたから、ここまで来られた。
だから自分と同じようにピアノが弾けなくなってしまった人の力になりたいんです。

卒業後、ドイツや日本で、ピアノ講師としてのキャリアも積みながら、ピアニストとしてご活躍されます。
近年は日本心理学会認定心理士の資格も取られたそうですが、それはなぜでしょうか。
前述しましたが、私はピアノで過去に2回の挫折を経験し、精神的に追いつめられて、ピアノがまったく弾けなくなってしまったことがあります。ピアノを習ったことがあっても、私のような思いをしてきたり、今でも同じように苦しんでいる人は多いのではないかと思います。せっかく好きでピアノを始めたのに、挫折したからそのまま脱落していくとか、底辺に追いやられていくとか、そのままピアノを辞めていってしまうのは、とてももったいないことです。そういう方がもし、もう一度ピアノを弾きたいと思うなら、私の出来る限りのことをしてあげたい。そのために心理学の勉強をして、認定心理士の資格も取ったと言ってもいいくらいです。私も、私のことを“もったいない”と思ってくれた人がいたからここまで来られたので、同じように力と時間をかけてお手伝いをしたいと思っています。
先生にとってのピアノの魅力とはどのようなところにあるのでしょうか。
音楽もそうですけれど、ピアノがないっていうのはちょっと考えられないですね。
私の母は悲しいことがあるとピアノを弾いていたって言いますけれど、私はそんなことはなくて、そこにあるのが当たり前だと思っていました。もしピアノがなくなってしまったら、うろたえて慌てるでしょうね、きっと。そばにいるのが当たり前の、伴侶みたいな存在でしょうか。
ピアノってすごいんです。ひとりで即興でもなんでもできちゃうし、他の楽器とか歌とかと一緒にやるのも楽しいし、伴奏という立場になって引き立て役になるのもそれはそれで面白いですね。ピアノの音がないと音が立体的にならないことが多いですし、メロディ、リズム、縦横のつながりや関係、和音のことも一度に全部ひとりで行う楽器なので、ピアノならではの楽しみは多いと思います。

自分なりのイメージを持ってピアノを弾きこなせる人を育てたい。
父・高田三郎の作品を引き継いでいくことも私の使命だと思っています。

ピアノを教えるにあたって、これからのビジョンを教えてください。
生徒にはピアノという楽器を使いこなせる人になっていってほしいと思います。
とにかくピアノの音が好きになってほしいし、ピアノにはいい曲がいっぱいあるので、面白いとか楽しいとか感じながら好きになってほしいですね。こんなふうに弾きたいという自分のイメージを持っている方に、どうやったらそのイメージに近づいていけるかっていうことをレッスンしていけるような教室にしていきたいと考えています。
繰り返しになりますが、生徒と先生はある意味共同作業であるべきだと思っているんです。ある程度のレベルまでは、一方的に教えなきゃならないこともあるかもしれませんけど、その域を超えて、音楽的素養のある人に対しては、一方的に私の価値観を押し付けるようなことはしたくないですね。教えられることを受け身で待っている日本の学生にはなかなか通用しないかもしれませんけれど、「先生はそう言うけれど、私はこうだと思う」って反論するくらいの気概がある人を期待しています。
それから、ひとりの先生に習うだけではなく、いろんな切り口から自分を見てもらうことも必要だと思っています。それぞれ得意分野があって、人間の能力は限られているから、どうしても全体を見ることが難しいんです。歴史や文化を学び、自分の視野を広げたり、自分を磨いたりすることと同じように、いろんな切り口からの批判を受け入れられる人間としての器を持ってほしいと思います。
今年2010年は、お父様の高田三郎さんの没後10周年でもありますね。
私は小さい頃から父の影響を受けてきましたし、父が留学中の私のために、ピアノ曲を書いてくれたこともあります。今年は節目の年になるので、9月に歌曲とピアノ曲をそれぞれ1曲ずつ取り上げ、その他モーツァルト、ショパン、シューベルトの作品でリサイタルを開こうと考えています。
合唱の伴奏をする人はもちろん、父の曲を知ってもらい、後世に伝えていくことも、娘の私の使命であると思っています。

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