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向山敦子ピアノ教室


ブログ

ラプソディーつづき

投稿日:2019-10-20

なかなかブログを書く時間がとれませんでしたが、

ラプソディーの勝手な詩的推理のつづきをようやく・・・

 

シューマンとクララの末の子フェリックスの名づけは

ブラームスでメンデルスゾーンから名前をとったのだそうです。

シューマンとクララの子と書いたのは当然なのですが、一説に

もしかするとブラームスの子ではないかとされている。

私はそれを確信をもって否定できます。なんでー?と

言われるでしょうが、ここではふれません。良い子や

良い青少年もこれを読んでいるかもしれませんので・・

 

フェリックスは詩作の才能があり、ブラームスはクララに頼まれて

送られてきていたフェリックスの詩に曲をつけてやり、クリスマスの

シューマン家に贈ったのだった。

「青春の歌 1」 (我が恋は緑) op.63-5 1873年

それはそれはフェリックスを大層喜ばせたとのことです。

ブラームスはフェリックスを赤ん坊の時からめんどうをみたわけなので

彼のことをわが子のように思っていたでしょう。

そのフェリックスが肺を病み25歳の若さで1879年2月に亡くなります。

ブラームスは手紙で看病するクララを慰めるためにその頃書いていたヴァイオリンソナタ

第1番通称「雨の歌」の第2楽章をしたためた。(1878年)

 

次回は

クララに「天国にもっていきたい」とまで言わしめた

このヴァイオリンソナタについて書きます。

ラプソディーとの関連はまだこの先の話となります。

 

 

ラプソディーOp.79 の謎

投稿日:2019-10-05

ブラームスのラプソディーに魅せられたのは、20代入って

まもなくだった。それからずっと愛奏曲ではあるが、私にとって

この曲はずっと謎であった。それがやっと解けたのです。(想像力を逞しくしてですが・・)

まず何が謎かというと、ずっとピアノ曲を書いていなかったブラームスが

何故、突然に思い立ったのか?そしてこの情熱的で狂おしい曲調は

なにゆえに?2番のうごめくような暗さとグレーなファンタジーはなんだろうと思っていたのでした。

きっとその頃に、ファンタジックなオペラや演劇、絵画や小説から何か

インスピレーションを得たのか?と考えていた。2番はホントに私の好きなデルトロの

イメージだったので・・・

 

クララ・シューマンとブラームスの往復書簡集を読んでいて思った。

まだそこまでいってなかったのだが、そうだ!ラプソディーの作曲された

1879年前後を先に読んでみよう。何かヒントがあるかもしれない!

 

このふたりの手紙のやり取りは愛情と尊敬に満ちており、後世の人たち

この極東の地においてこのように読まれるとは思わなかったであろう本心がつづられている。

それは千通にも及んでおり、驚くことにそれは毎月のように書かれているのである。

よほどクララはブラームスを頼りにしていたし、ブラームスも心の拠り所であったのだろうと思う。

ほんとに素敵な友愛情です。(友情と愛情を併せ持つこと)勝手に作ってすみません。

しかし初めの頃、ブラームスの若かりし時の熱烈な手紙は、クララによって破棄され

今は800通の書簡が残されているという。この書簡集にはシューマンとブラームスのやりとりも

あります。1853年の9月に若きブラームスはシューマン家を訪れる。その翌年の

1854年の2月にシューマンは、精神が壊れライン河に身を投げたのです。一命は取り留めた

ものの、皆の悲しみのうちに精神病院へと移送されていくのです。

その1854年の6月にこのラプソデイーに関係してくる末の子フェリックスが生まれます。

クララはその後、演奏活動、育児とそして夫の病気と大変な人生を歩んでいきます。

ブラームスを頼りにして・・・

 

ラプソディーの生まれた理由といえるかどうか、私の推察にすぎませんが、

悲しい出来事があったのです。1879年に・・・

 

 

エストニア音楽セミナー

投稿日:2019-04-14

先日、テレビでかの香織さんとパーヴォ・ヤルヴィさんの対談を

聞きました。かのさんは現在はお酒の杜氏をしていて音楽家でも

あります。パーヴォさんは、言わずと知れたエストニア出身で

N響の初代主席指揮者である。N響アワーでおなじみですね。

 

かのさんは、酵母の生きている音 ポコ・・ポコ?とか?に

耳をかたむけて感動したり、いろんなことに感じる繊細な心をお持ちの方のようで

パーヴォさんとは意気投合!

酒蔵に案内したりお酒をふるまったりしていた。とても素敵な人でした。さて

パーヴォ・ヤルヴィさんは、エストニア出身。やはり以前にNHKの

エストニアの音楽祭特集に出演して祖国の音楽や歴史について

語っておられた。私は北欧の音楽が大好きで興味もあったので

早速調べてエストニア音楽セミナーに参加したのです。

 

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