ピアノ教室コンセール・イグレック♪
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英語のアタマ?
投稿日:2011-03-27
こないだのエッセイで英語脳をつくる英語教材のことを書いたが、これを聴きはじめてひと月ちょっと。なかなか時間がないので、何本かある英語のボキャブラリーをふやすDVDやドラマのDVDなど一部をまだ1,2回しか見れていない。ただ日本語脳を抑制し、英語脳を活性化させるBGMのCDはとても心地よいのでもっぱらこれを聴き、あとDVDの音声をCDにまとめたものを車の運転中に聴く、くらい。
勉強しようと思いつつ、このひと月でのべ何時間くらい聴いたかなぁ。
20時間聴いたかなぁ。・・・
じつは昨日、とってもびっくりしたことがあったのです。
某大学で社会人講座の体験レッスンがあり、中級英語のディスカッション講座に参加したのですが、・・・。
たぶん何言ってるっかわっかんないんだろうなぁ、と思っていると、先生が入ってきて「教室、寒いね?けどちょっと節約のためにがまんしよう。・・・まだ開始まで5分くらいあるから好きにしていて。」とクラスに話しかけたところからグングン耳に入ってきて、いざ講義が始まり、先生の自己紹介からきょうのレッスンの概要までほとんどすべて理解できて、びっくり。
自己紹介でグループを回り、最初は口がよく回らなかったけれど、5分もするとなめらか〜?に口が回り出して、海外に行って3日くらい経った日みたいな感じ?!
次に簡単なディクテーションがあったのですが、もう何年振りかで書く英文も8割方できている。
後半には先生の話しぶりは断然速度があがり、かなりのネイティブ・スピード。とてもじゃないけどリピートで言ってみろと言われたら追っつかないけど、最後まで内容の把握はよ〜くできてしまっていた。(^^)/
ホント、頭が海外に行ったときの感じになっている。
びっくり!
ただこの講座、体験レッスン前に満席とか。
キャンセル待ち、出ないっかなぁ。。。(*^^)v
桜のつぼみ
投稿日:2011-03-20
桜のつぼみ、ふくらみかけてきましたね。
今年に入ってから、何かと勉強です。
まぁ、やることがいろいろとあって、なかなか毎日とはいかないのが実情ですが。・・・
まずは英語?・・・年明けにグァムに行ってから、なぜか無性に英語に浸りたくなって英語教材を丹念に調べてゆくうちに或るいいものとめぐりあい、その中のひとつ、日本語脳を抑制するヒアリング教材を聴いていると聴覚神経がとてもリラックスして集中度がものすごく上がる。英語をつかさどる周波数は日本語領域のそれを随分と越えていて、どんなに英会話を勉強してもヒアリングや発音は一過性のものでうまくはならず、海外留学しても、成人してからのものでは、日本に戻り何年か経てば抜けてしまうといわれる。
こういった知識は以前からあり、それは音楽にも同じことが言えると考えていた。
海外での勉強をしている間はいいが、こちらに戻って日本語圏で日本語の語感のなかで生活し、日本の家屋の狭い周波数範囲にいれば音楽もそれなりに戻ってしまう。
だから外来の演奏家の生のコンサートを聴いたり、常日頃からその音が身体に沁みつくくらい聴いていなければ、絶対に自分のものにはならない。
私はそんななかでフランスメソッドの技法の勉強に勉強を重ね、自分のものとした。
それでもまだ矛盾を感じるところもあったのだが、このヒアリングシステムを聴いているとその問題が解決され、英語のヒアリングの力も数週間で自然とそなわり、(・・・うむ、でもただ聴きとれるようになったもののもともとボキャブラリーが乏しいので何を言っているかわからない?!(+_+)/~~~のですが・・・)しかしまた音楽の聴こえかたもいっそう繊細なものに変わり、冴えてきた。
近年、ピアノ教育界はコンクール時代というべき時期の真っただ中で、世の中にはいろいろなコンクールが山のようにある。
ひと昔前はコンクールと言えば数えるほどしかなくて、コンクールを受けるということはそれ以前にかなりの勉強量(バッハなら2声、3声のインベンション、平均律など全曲を手がけ、ハイドンに始まってモーツァルト、ベートーヴェンソナタはもちろん、ツェルニー課題は50番、60番すべてやった上にショパン・エチュードなど)を積んでいる、ということを意味した。それに比すれば、今のコンクール参加者たちはインベンションも1、2曲しかやったことない、平均律もこれから。・・・モーツァルトソナタ?1曲しかやったことないけど。・・・そんな参加者も多いのである。
そんなでもコンクールに果敢に挑戦する。
舞台経験を踏み、度胸はついてきている。集中力の配分もいい。・・・
ある程度経験を積むと「受賞」ということにつながることもある。
こういったコンクール状況下にあって、10年も前の私には「それ、ちょっと(時代が?)違う!」って感じだった。
でも最近のコンクールっ子たちにとっては、半ばこういった状況は当りまえ。そんな中で確実に力量をレベルアップさせてゆくには、指導者側にも変革を迫られる。
状況をつかみ、課題曲に翻弄されない実力をつけさせるには、年間ビジョンにもとづくはっかりとした生徒個別のカリキュラムを教える側がもっていないといけない。
私は、昨今のコンクールは「適宜に」「適時に」有効利用して、勉強の機会にすればよいものと考えている。本人にとって必ずしも参加することがいいとは限らない時期もあるし、参加することで飛躍的に伸びる時期もありうる。
それにコンクール参加や結果は言うまでもなく通過ポイントであり、音楽に向かっている時間のほんのひとコマでしかない。
コンクールなどとは関係なくピアノをしっかりとおけいこできている生徒もいるし、コンクールを受けたがっても有効利用できない時には充電期間をもたせる。
今回のピティナ会報誌「Our Music」292号で印象に残った記事として「初見力を養う」の林達也先生の文章は、意見を同じくするところが多く、気もちがすっきりした。林先生の「習うより慣れろ」「ミスにとらわれず音楽の本質をつかめ」といったお考えは、まったくその通りと思う。
先日ピティナコンペの課題が出たばかりだが、こうした期日付きでまとめあげる際にとくに大事なことが「読譜力=初見力」、すなわち最初の譜読みの段階での確実性とイマジネーションが曲を仕上げる原動力につながり、なによりの土台である、と考えていた矢先。林先生がおっしゃっている「完璧ではない」初見能力の重要性を切に感じる。
私は、中身としてはまず拍感をとらえること、拍のなかでのリズムパターンを読めること、そしてそのリズムの持つ音楽の雰囲気をつかむことが第一と考える。
そこからメロディのアーティキュレーションに目を向け、調性(主調と転調部の関係性)をつかみ、曲の性格を考える。
またその際に指使いを考え、仕上がりのテンポを想定した上での適切なタッチを予測する。これも加えて重要なこと。
譜読みでは曲の概観をつかみ、曲想をつかむ。そこから練習が始まる。
「譜読み」というと音を追うだけ、と考えているひとが大多数を占める。
しかし、「譜読み」は「音読み」ではない。
音は覚えるほど練習しても何拍子の曲かと聞かれるとわかっていなかったり、リズムが死んでいたり、といったことはよくありがちだが、私はこういったことについては入門・初心者の相手が幼児の段階から、はっきりと何度もくりかえし教えている。
私は上級者レッスン生たちの楽譜を練習することも時折はあるが、ほとんどはレッスン中初見で生徒たちのまえで弾き示し、解説する。
どうして初見ができるようになったかは、やはり読譜量か。
初見は音大時代も管楽器の学生の伴奏などで鍛えられたが、教えるようになった若い頃からツェルニー全曲、ソナチネ集はもとより、バッハ、モーツァルトやベートーヴェンソナタ、ショパン・エチュードといったものを全曲片っ端から通奏してみることで何度も勉強した。本で言えば乱読状態の積み重ねだが、そういう時間は絶対に役に立つ。曲は1曲でもたくさんみるに限る。
あと、小倉郁子先生の「親学講座レポート」もたいへん興味深く読んだ。
先日私は、このHPのなかのエッセイ「最近のレッスンで思うこと」でも、「とにかくお母さまはお子様のよいところをみつけて誉めてあげてください」と書いた。この後、とてもお母さま方の反応がよくなったのでほっとしている。
私は日ごろレッスン中は生徒たちにべた褒めしないし、とにかく次の練習の注意点に、と専念しているので、まず褒めている時間もないといったほうがいいかもしれない。
だからお母さま方はうちの子は不出来なのかしら?と不安に思っていらっしゃった節があったようなのだ。お母さま方との連携が出来てよかったと思う。
あと小学高学年にもなると、中学受験のための塾通いなどの問題ともぶつかってくる。
家のなかでも「ピアノなんかより勉強でしょう?」といった雰囲気が出てきて、そうなると生徒自身もどうしても片手間の気もちが出てくるというもの。
でも、エネルギーをセーブしてひとつのことに100%消化しない者が、他のものに100%精魂込められるだろうか。
結局コンクールやコンサートなどでずっと忙しい生徒のほうが、進学校にも入ってゆくし、ピアノのほうも予選通過や受賞続き、というありさま。
ほんとうにこのレポートの中盤の結び、「何事も一生懸命やることを身につけたお子さんはお勉強もしっかりやるのです。」の言葉通り。
この会報、教室に付箋をつけて置いている。
さて昨年の終わりごろから、今後のレッスン課題として「幼少期からよい耳を育てること」の重要性を感じている。
教室ではレッスンが前後になる同年齢くらいの生徒がいると、ペアを組ませ、毎回10分程度のソルフェージュ機会をおいている。
2人がレッスンでやっている曲やもっているテキストのなかの曲などを私が弾き、向こう側で手拍子をとらせ、何拍子か当てさせたり、その曲について音で導きながらアナリーゼをいっしょにする。
また簡単な譜面で初見をさせる。
一方の生徒が弾く時は、必ずもう一方の生徒に拍子をたたかせる。
こうすることで弾く子はミスしても止まらず進ませるナビゲーションになり、また拍感を育てる意外にいい機会になっている。
聴音についてはいろいろと考察がある。
単音から始めるが、重音になると途端にできなかったり、和音についても単独で「ドミソ」とか「シファソ」とわかってもあまり意味をなさず、関連性のなかでとらえなくては演奏上の効用はあまりない。
調性をとらえるべき音階のT→X→Tの音型ですら、「ド→ソ→ド」くらいならすぐとれるようだが、♭4つくらいの調になると結構つかめない。
指は巧みに回っても、いかに演奏時にこの左手の大切な音の進行を聴いていないか、ということだ。
ピアノ以外の別の曜日にソルフェージュ時間を作ることは生徒側にとっても負担と思われるので、この10分という短い時間でやれる効果的なことは何か。これが私の当面の課題だ。
加えてL・モーツァルトやC・P・E・バッハの記譜法に関する書物を何冊か読んでは、また読み返す。そんな毎日。・・・
こころ静めて・・・
投稿日:2011-03-14
東日本大震災。・・・気仙沼の津波の映像。
みるみる海水が押し寄せ、あっという間に海水に呑み込まれ、車がまるでおもちゃのように流され、そのうち町全体が海と化し、家が丸ごと押し流され、丸呑みの状態になってゆく。その有りさまを呆然と眺め、それでもやむなく高いほう、高いほうへと足をやる。
自分がその当人としたら、いったい何を思うだろう。
自然の脅威に打ち震え、うちひしがれ、それでも尚そこに立っている自分、安全なほうへと向かう自分。生きようとする力。
自分が先ほどまで暮らしていた空間、その町が一瞬にして崩壊するさまを眼前にするだけでも残酷としか云いようがないことなのに、前を向き、生きてゆかなければならない。
そしてそのダメージだけでもただならぬのに、余震がひき続き起こり、まだ津波がくる可能性のある中、そこからプラスへ考えられる要素がない。
とっさの気力がどこまで続くのか、メンタルの面でも忍びない。
震災、火災はじめ水害などの大きな災害に遭遇したことのない自分に、この未曽有の災害で被災の方々に容易にかけられる言葉などあるだろうか。被災地にご家族、ご親戚をおもちの方、本当に不安なことと察します。
また東京、横浜など中枢部も、交通網のトラブルなどたいへんな事態のよう。そんな中なおも地震が続き、これからいろんなストレスが蓄積されてゆくと思われる。友人、知人も多く案じられるが、ただでも電波障害が考えられる。おちつくまで連絡は控えるほうが賢明だろう。
このところのこういった地球規模的な自然災害には、ほんとうに胸が詰まる思い。成るべくして成った、としか言いようがないものの、遠くにあっては何も力になれる術がない。
その事態にあって自分なら、一体どうするだろう。
こうしたシュミレーション的発想は必要なのだろう。
日本の片側が大きく揺らいでいる中、何事もなかった私たちには、日々の仕事ができることに感謝し、毎日を真剣に生きるしかなす術がない。
こころして今朝も芸文の図書館で借りてきた、廃刊になっている音楽の研究書に目を通し、気もちを静めている。
昨日は出ついでに、名古屋市美術館での「ゴッホ展」にも出かけた。
そのパリ時代の行動から気性の激しさが優先してしまうゴッホだが、有名な「自画像」「糸杉に囲まれた果樹園」「アルルの寝室」や「タマネギの皿のある風景」など、すごく優しく穏やかな筆致でこころ打たれた。
じつはとても繊細でやさしさを秘めたひとだったのだろう。
またゴッホの絵には、音がない。
鳥の声や風の音はあるのだが、音楽は聴こえてこない。
私はいつもゴッホの絵をみるにつけそう思い、はっとするのだ。
日常の一瞬を見事に抉り、その光景や静物が宿す声なき声を描いているかのようである。
帰宅すると、昨年の発表会で「月の光」を弾いて以来大学受験でピアノレッスンをお休みしていた生徒からメール。東京藝術大学の芸術学科(美術学部)に合格、とのこと。まぁ、なんて素敵なんでしょう!
私が生まれ変わったらなりたい職業No.1は、美術学芸員。
芸術的センスもよく、几帳面で粘り強い彼女ならではの快挙。
滅入りそうなニュースのなかで、素敵な春の知らせでした。
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